【一分雑学】遠山の金さんと大岡越前、どちらの方が偉かった?

遠山の金さんこと遠山金四郎と大岡越前といえば、どちらもテレビの時代劇や映画、講談で大人気のお奉行様です。

同じお奉行様で、2人がライバルのように思っている人もいるようですが、実際にはどちらの方が偉かったのでしょう?

 

 

遠山の金さんと大岡越前は実際どちらが偉かった?

結論から言うと

町奉行のときだけを考えたら遠山の金さんこと遠山金四郎

最終的な役職を考えたら大岡越前

となります。

 

以下、少し説明を加えます。

 

町奉行の格で考えたら

遠山金四郎は北町奉行を約3年務め、大目付になり、その後南町奉行に移っています。

対して、大岡越前は南町奉行です。

当時、奉行としての格は南町奉行より北町奉行の方が上とされていたため、この点では遠山の金さんの方が上ということになります。

 

最終的な役職としては大岡越前の方が偉い

時代劇や講談で知られる『遠山の金さん』『大岡越前』ということを考えたら、上記のように遠山の金さんが就いていた北町奉行の方が格が上となります。

しかし、実際の歴史的な事実となると

  • 遠山の金さん ⇒ 遠山景元(とおやまかげもと、幼名が金四郎)
  • 大岡越前 ⇒ 大岡忠相(おおおかただすけ)

であり、大岡忠相は最終的に寺社奉行になっています。

 

寺社奉行は、勘定奉行や町奉行と共に三奉行と言われますが、その中でも寺社奉行が筆頭格とされます。

なので、最終的な役職としては大岡越前こと大岡忠相の方が偉いということになります。

 

 

余談として・・・

三奉行のうち、勘定奉行と町奉行(北町、南町)は旗本(禄高一万石未満)が就くものですが、寺社奉行は基本的に大名(禄高一万石以上)でないと就けません。

大岡忠相が寺社奉行に就いたとき、加増されて5,920石だったのですが、これに足高(役職に就いているときのみ支給される)が加えられ、1万石となりました。

 

更に、寛延元(1748)年10月には、正式に足高分が加増され、三河国大平(現岡崎市)1万石を与えられ、大名になりました。

なお、江戸時代を通じて町奉行から大名になったのは大岡忠相のみなので、多大な評価をされていたのは間違いないと思われます。

 

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