【一分雑学】忠臣蔵赤穂浪士、浅野家家臣の討ち入り参加率は?
時代劇の代名詞ともいえる忠臣蔵。
主君の敵討ちをするために吉良家に討ち入り、見事その首を上げましたが、四十七士(実際打ち入ったのは46人)は切腹という処分を受けました。
ところで、この47人以外の浅野家家臣団はどうしていたのでしょう?
忠臣蔵、打ち入り参加率は?
結論から言うと
約12%の参加率
でした。
以下、少し解説します。
残り88%も裏切ったとは言えない
取り潰し前の浅野家には380人の家臣がいました。
この380人中47人の討ち入りということで12%という計算です。
しかし、内訳を見ていくと少し印象が変わります。
380人のうち医師や僧侶などの非戦闘員を除くと、320人。そして、そのうち江戸詰め組などを除いた220人余りが、今後のことを話し合いました。
結果として、無条件に開城して幕府の収城使、荒木十左衛門に城を引き渡します。
その後、藩士たちは百姓になったり、他国へ移り住んだりと離散します。
この時点で大石内蔵助が討ち入り計画を胸に秘めているとは知らない者も多かったので、彼らが逃げた、裏切ったということには当たらないと考えます。
結果的に紆余曲折を経て47人までに減りますが、この人たちは大石内蔵助の命令を待っていた人ばかりではなく、そもそも敵討ちをすべし、と考えていた人も含まれています。
いずれにせよ、この『赤穂浪士』たちの話は江戸時代から賛否両論ありながらも、忠義を描いた物語として現代にまで伝わっています。
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