【一分雑学】米国ギャング、アル・カポネを手短に紹介
何度もドラマや映画で取り上げられ、死後70年以上経ってもマフィアの大立者として記憶される『スカーフェイス』アル・カポネ。
起こした凄惨な事件と裏腹に、陽気であり、当時のマスコミに取り上げられることが多かったことも関係しているでしょう。
そんなアル・カポネを手短に説明します。
アル・カポネを一行で表すと
禁酒法時代(1920~1933年)のシカゴで犯罪組織を運営し、機関銃を使った抗争で多くの死者を出したアメリカのギャング。
アル・カポネの生涯を箇条書きで紹介
以下、アル・カポネの生涯を、いくつかのパートに分けて箇条書きで紹介します。
生い立ち
・1899年1月17日 アメリカ、ニューヨーク州のブルックリン生まれ
・イタリア系アメリカ人、9人兄弟の4男。父は理髪師、母は裁縫婦
・学校を7年生のときに喧嘩で退学
・ニューヨークのギャング、フランキー・イェールの店で働き、暗黒街に足を踏み入れる
シカゴへ
・1920年前後、マフィア幹部ジョニー・トーリオの誘いでイリノイ州シカゴに移住
・シカゴで頭角を現し、賭博場兼売春宿の支配人になり、トーリオのパートナーに昇格
・1925年ジョニー・トーリオ引退に伴い、縄張りを譲り受け、26歳で組織のトップに
シカゴでのし上がるアル・カポネ
・禁酒法下のシカゴにおいて酒の密売・売春・賭博でのし上がり、市議会議員や警察を買収し、組織を拡大。その過程で数々の敵を抹殺
・1926年『マクスウィギン事件』。構成員が敵と間違えてマクスウィギンという検事を殺害。マクスウィギンが汚職検事であり、また証拠不十分でアル・カポネは起訴されず。
・1929年2月14日『聖バレンタインデーの虐殺』(別名:血のバレンタイン)と名づけられた抗争事件を起こす。敵対ギャング4人、一般人3人の計7人が死亡。
・拳銃の不法所持(自作自演)で逮捕される。自身の行動が世間の非難を受けていることで、そこから目をそらすため(その証拠に約10ヶ月で釈放)
逮捕・服役
・フーヴァー政権下で、エリオット・ネスのチームがアル・カポネを密造酒関係で調査(映画「アンタッチャブル」で有名)
・脱税で逮捕され、1931年に収監される
・1932年脱獄不可能な囚人島、監獄島と呼ばれたアルカトラズ刑務所に移送される
・若年時に感染した梅毒が悪化、次第に痴呆の症状が出始める
アルカトラズ刑務所でのアル・カポネ
釈放・最期
・1939年11月16日、釈放。ボルチモアで梅毒の治療を受ける
・1945年、民間人で初めてペニシリンの投与をされるが、梅毒が進行しすぎていて効果がなかった
・1947年1月25日、脳卒中に伴う肺炎により死亡。享年48歳。
アル・カポネの異名『スカーフェイス』
フランキー・イェールの酒場『ハーヴァード・イン』で働いているとき、アル・カポネは若い女性に卑猥な言葉を使いました。
それを聞いた女性の兄、フランク・ガルチョが起こって、アルを殴った上、ナイフで左頬と首筋を切りつけます。
ガルチョは、サルヴァトーレ・ルカーニア(後のラッキー・ルチアーノ)に仲裁を頼み、事なきを得ました。
このとき、顔に傷がついたことで、アルには『スカーフェイス(疵面)』という異名がつきました。
ちなみに、本人はこの異名を嫌っていたそうです。
アル・カポネの人物像
・179cmで当時としては大柄
・ギャング組織に出入りしながら、製本工場やボウリング場で働くなど堅気の仕事もしていた
・19歳で結婚後しばらくはギャング組織との関わりをやめ、ボルチモアで建設会社に簿記係として就職する。当時の評判は『頭の良い好人物』
・アルはシチリア出身ではなかったのでマフィア本流には加われなかった
・陽気な性格からかマスコミとの付き合いもあり、インタビューを受けたり、生活困窮者への慈善事業をアピールしたりなど露出が多かった
・音楽はジャズを好み、秘密の酒場や会員制クラブで黒人ミュージシャンに演奏させる
・黒人やユダヤ人を差別しなかった
ただ単に粗暴なだけでなく、複雑な人間性を持っていただけに、アル・カポネは時代を超えて魅力的な人物に映るのだと思います。