【一分雑学】米国マフィア、ラッキー・ルチアーノについて手短に説明②

2024年6月27日

前回の記事では、ラッキー・ルチアーノについて概略を述べました。

まだご覧になっていない方は、是非併せてお読みください。

この記事では生涯を箇条書きにしてまとめます。

 

生い立ち、アメリカへ

・1897年11月24日、イタリア王国のレルカラ・フリッディ村(シチリア島・パレルモの近く)に次男として生まれる。(父アントニオ、母ロザリオ)

・1906年11月、両親、兄弟(4人)と共に、アメリカのニューヨークへ移住

・ニューヨークのロウワー・イースト・サイドのスラム街で少年時代を過ごす。

 

ギャング組織結成

・ファイブ・ポインツ・ギャング(イタリア系ストリートギャング)に身を投じる

・1916年、生涯を通じて重要なパートナーとなるマイヤー・ランスキーと知り合う

・ギャング団を結成し、昼間は帽子会社で働きながら、夜は泥棒行為を行う

・1916年6月26日、麻薬の不法所持で、ハンプトン刑務所に服役(刑期6ヶ月)

・1917年、マイヤー・ランスキー、フランク・コステロ、ベンジャミン・『バグジー』・シーゲルとギャング団を結成。盗み、銀行強盗、競馬のノミ屋などで資金を貯める

 

禁酒法時代

・1920年、ジョー・アドニスの誘いに乗り、酒の密売を始める。軌道に乗り、界隈でも有名なギャング組織として認知され始める

・1923年、コーザ・ノストラのボス、サルヴァトーレ・マランツァーノから傘下入りを打診されるも断る

・1923年、麻薬所持で逮捕されるも、麻薬取締局と取引し、服役を逃れる

・1925年、ノミ屋、場外馬券場、ナンバーズなどを運営し、派手に稼ぎ、警察や政治家を買収

 

マッセリア傘下へ

・1927年、ジョー・マッセリア(ジョー・ザ・ボス:ニューヨークのボス中のボス)の傘下に入り、組織のNO.2に

・1928年、全国的なマフィアの同盟関係『ザ・セブン・グループ』を結成

・1929年、マフィア史上最大の抗争となった『ステランマレーゼ戦争』が始まる。(ルチアーノが与するジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノという二人のボスの抗争)

・1929年5月、アトランティックシティ会議(セブングループ+アル・カポネなど)

・1929年10月17日、敵方のマランツァーノと会談、決裂。半殺しにされる。顔を引き裂かれ、ナイフを突き立てられた上、暴行されて放置されるも運良く警官が発見、生還。(ラッキーのあだ名がつくキッカケとなる)

 

両ボスを殺害、ステランマレーゼ戦争を終わらせる

・1931年4月15日、ルチアーノは自身のボスであるジョー・マッセリアを殺害(正確には殺害を首謀したと見なされている。実行犯は逃亡し、検挙できず)

・マランツァーノがニューヨークを掌握、全米のマフィアを呼びつけ、ボスの中のボス就任式を行う。この就任式でニューヨーク五大ファミリーが誕生

・1931年9月10日、ルチアーノの雇った殺し屋が『ボスの中のボス』サルヴァトーレ・マランツァーノを殺害。このとき、ルチアーノは協力関係にある全米のマフィア組織に、マランツァーノ派のマフィアたちを皆殺しにするよう連絡したとされるが、事実ではない(『シチリアの晩祷の夜』事件)

・ラッキー・ルチアーノがコーザ・ノストラの事実上のトップになるも、ボスの中のボスにはならず、最高幹部、議長のようなポジションにつく

 

逮捕、服役

・1932年、大統領選に介入し、フランクリン・ルーズヴェルトを当選させるも、大統領になった途端、ルーズヴェルトが裏切り、不正を調査

・1933年、禁酒法廃止

・1936年10月6日、強制売春の罪で禁固30~50年の判決が下され、その後収監(ルチアーノ自身は売春をビジネスにしたことがないので冤罪ではあったが、殺人・酒の密造密売などでも容疑がかかっていた)

刑務所の中から指示を出し、影響力を維持

 

釈放、イタリアへ追放

・1946年、恩赦で釈放が決定、ただし国外退去、生まれ故郷であるイタリアのシチリア島へ追放されることに

・1946年2月9日、船上でのお別れパーティー

 

イタリアからキューバへ、そして再度の国外追放

・1946年2月、イタリア、シチリア島に降り立つ

・1946年9月、キューバのハバナへ

・1946年12月、ハバナ会議(マフィアの全国委員会)に出席。議長を務める

1947年3月29日、アメリカの圧力でキューバから追放され、再びイタリア・シチリア島へ

 

イタリアで暗黒街を支配

 

麻薬取引で、イタリアからキューバ、アメリカ間の密輸ルートを築く

・1949年、ニューヨーク港の税関で大量のアヘン、ヘロインが発見され、ルチアーノの関与が疑われる。イタリア警察に拘束、尋問を受ける。証拠不十分で起訴されなかったが、生まれ故郷で軟禁状態に

・1951年、軟禁状態はとかれていたが、アメリカ側の捜査の手が迫り、24時間の監視状態に

これ以降、アメリカではルチアーノの跡目を争い、抗争が繰り広げられる。ルチアーノも襲撃を受ける

・1957年11月24日、マフィアの全国委員会、アパラチン会議が招集されるも、警察に情報が洩れ、ボスたちが多数逮捕される

・1958年、イタリア政府の調査で、ルチアーノがマフィアを引退して真面目な生活を送っていると結論付けられる(実際は引退していない)

 

引退、死亡

1959年、心臓発作で二度倒れたことを機に、引退を決意

自伝的映画の制作を企図するも、マフィアの内幕をさらすことになりかねないため、アメリカのマフィアから反発を招く

1961年、映画の制作を断念。再び暗黒街へ戻ることを決意し、麻薬流通組織を作るも、再び心臓発作で倒れたことを機に、引退

1962年1月25日、ナポリ空港で心臓発作に見舞われて倒れ、死亡が確認される

 

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