【一分雑学】大阪城落城後、豊臣秀頼の子供はどうなった?
戦国時代の終止符と言えば、江戸幕府が開かれた1603年が一つの目安となりますが、完全に幕府が全国を掌握したと言えるのは大坂の陣が終わったとき(1615年:慶長20年)でしょうか。
そんな戦国時代の有名人は徳川家康以外に、真っ先に名前が挙がるのは織田信長と豊臣秀吉でしょう。
しかし、現在、織田信長や徳川家康の末裔と名乗る人はいても、豊臣秀吉の末裔がいないのは大坂の陣で敗れた後、秀吉の家系は孫の代で途切れたからです。
秀頼の子供は?
秀吉の跡継ぎは淀君との間に生まれた秀頼です。
その秀頼は11歳のときに、徳川家康の孫娘である千姫と結婚しましたが、両家はそのとき既に対立関係にあり、その影響からか千姫との間に子供はできませんでした。
しかし、秀頼は側室のお石との間に国松という男の子と女の子(名前不明)をもうけました。(※女の子の方は別の母親との説あり)
秀吉の血筋はどうなった?
1615年、豊臣軍は大阪夏の陣で敗れ、秀頼は母親の淀君と共に大阪城内で自刃しました。
このとき、2人の子供は脱出し、伏見に逃れたそうです。
しかし、徳川方の残党狩りは厳しく、2人とも捕えられました。
国松 ⇒ 京都の六条河原で処刑
娘 ⇒ 処刑は免れ、仏門入り
仏門に入った娘は生涯独身でしたから、そこで秀吉の血筋は途絶えたということです。
秀頼の娘のその後
女の子の方は鎌倉の東慶寺に入り、天秀尼(天秀法泰)と名乗りました。
東慶寺は天秀尼が住持だった頃、駆け込み寺、縁切寺として知られるようになったそうです。